生きていく中で劣等感を感じることもあると思います。
しかし、その劣等感は誰に対してのものですか?
自己実現をしていく中でその劣等感は正しいものですか?
今回はそんなお話。
他者と比較すると言うこと
おそらく今まで生きてきた中で、他者と比較されなかったことはないと思います。
勉強の成績の順位、運動会での徒競走、働かれている方であれば営業成績などなど。
世の中は、他者と比較されることばかりで、競争社会であると言うのも間違いではないでしょう。
しかし、他者と比較することに何の意味があるんですか?
私たちは、性別、年齢、知識、経験、外見などなど、全て違っていて、全く同じ人間など存在しません。全く違うのに比較など無意味ですよね?
数学を勉強された方ならご存じと思いますが、違うベクトルは比較できませんよね?
もしも人間を1つの型にはめると言う前提があるのならば、他者と比較して順位付けすることにも納得がいきますが、まさかそんなことはありませんよね?
同じではないけれど対等
私たちは常に比較される世界で生きているので、とかく人としての「違い」を善悪や優劣で判断しがちです。
何ができるか何ができないか、何を知っているか知らないか。そういったことについて優劣や善悪をつけられてしまいます。しかしそれは間違っています。
先ほども書きましたが、私たちは皆全てにおいて違うのであって、違うが故に比較して優劣をつけることはできないのです。
何かの理想像に対しての比較はできますが、それをすることと他者と比較して優劣をつけることを絡めてはいけません。
人間の価値はそんなことでは決まりません。
全ての人間は違いはあれど対等なのです。
理想の自分との比較
私たちは、誰かと比較されるために日々を生きているのではありません。
理想の自分と比較をして、今の自分よりも前に進むために生きているのです。
そしてそのこと自体に価値があるのです。
しかし、他者と比較してもいい例外があります。
それは、自分の理想のイメージに100%合致する他者である場合のみです。
劣等感は、他者との比較で生まれるものでなく、理想の自分との比較で生まれるべきですね。
ポイント
- 他者と比較することには何の意味もありません
- 人はみな同じではないけれども対等ですよ
- 劣等感は理想の自分との比較の中で感じるべきものですね
きっと人生の意味は理想の自己実現なんでしょう。
私はいつでもうつ病を治そうとしているあなたの味方です。
ではまた!